カテゴリー
最近のエントリー
アーカイブ
久保田組スタジオ物語 第十一章
2006年06月29日

骨組みがほぼ完成する。大きい建物なので、梁を頑丈にしてもらいました。

この後、恩人大森さん、千葉さんが、建築現場から、あまってる屋根材(木のパネル)を大量に、2トンダンプで運んで来てくれたので、壁の材料にすることにした。

この二人は、酒豪なのでオレは当時、相当鍛えられた。水道工事の仕事は、かなりハードなので、仕事が終わった後、心も体も何かを欲している状態になる。そこに容赦なく、酒を流し込むのは、この上ない快楽っすよ。二日酔いで、ゲロを吐きそうになりながら穴を掘るのも、なかなか良いものです。

オレは配管のような難しい仕事は、何年やっても良く覚えられなかった。ある日、大森さんから、忙しいのでバイトを探してくれと言われ、大学の後輩 H, K , S の三人を連れて来た。彼等は、かなりアホで、仕事もメチャメチャなので、水道屋の職人から 三バカ と呼ばれていた。オレもバカな奴らだ、と笑っていた。だが、ある日、その呼び名が、バカ四天王 に変わっていて、もう一人は誰かなと思っていたら、オレだということが判明。オレは奴らより、何年も職歴があるベテランバイトのはずだったが、ショック! 千葉さんが、さりげなく言ってたことわざ「目クソ、鼻クソを笑う」が頭をよぎった。

以来、国立(くにたち)水道界では、美大生はアホというのが定説になってます。

久保田組スタジオ物語 第十章
2006年06月28日

(これは、オレのアトリエを作った時の話です)
相変わらず、恩人千葉さん(第九章参照)は毎日のように来てくれた。もし、オレだけでやっていたら、多摩川のルンペンの家に毛が生えた程度のものしか出来なかっただろう。千葉さんは、大工なので仕事には厳しい。オレはかなりイイ加減なので、よく怒られる。単管パイプを、言われた寸法に高速カッターで切り、どんどん組み立てて行きます。言われた通りにやってるだけなんで、半分、何をやってるのかわからなかった。

オレは、大きい作品を作ることが多く、クレーン付きのトラックをよく使う。なので、間口の天井を高くして欲しいと頼んだ。そのころは、よく分からなかったけど、今考えてみると、かなり変形した建物なので、面倒臭かっただろうと思う。そういえば、千葉さんが、なんでこんな形にするんだ、みたいな事言ってた気がしないでもない。感謝。

汗だくになりながら、作業は続きます。

ドブロブニク
2006年06月27日

surujisan.jpg
サラエボに行く前に、クロアチアのドブロブニクという、街並が世界遺産になっている都市に行った。まさに地中海の美しい街といったかんじで、宮崎駿のアニメのモデルになった街とか、そうでないとか(どうでもいいよ)。とにかく、オレンジ色の屋根が青空に映えて、すばらしい景色を作り上げている。

パリに住んでいたせいもあり、観光客が団体で押し寄せる、こういった所は飽き飽きしていたんで、誰も来ないような山にでも登って、ゆっくり景色でも眺めようと、標高300メートル程のスルジ山というのに登ってみた。夏なのでとても暑い。そんなことしてるのはオレだけ。登りはかなりキツイ。一時間ほどして、頂上に到着。オレは凄い光景を目にした。

爆撃でぶっ壊されたロープウェイ(写真)。エライモン見つけちまった〜、と感動。中に入ってみると、分厚い鉄板に蜂の巣のように穴が開いてた。そこまでしなくても、という印象。ありとあらゆるものが、穴だらけ。コンクリートの壁って、こんな穴の開き方普通しないよ。ビビる。ここは、クロアチアがユーゴから独立する際、セルビア側から攻撃を受けたらしい。世界遺産の街並も相当壊されたようだが、今は修復されてわからない。山の上のこの建物だけが、その当時を物語っていた。まわりにクロアチアの兵士の墓が、セルビア側を向いて、このドブロブニクの街並を守るように立っていた。辺りの草むらの中に、もっと何か無いか探そうと思い、入って行ったが、もの凄くでかいヘビ(1メートル程)が出て来て、毒持ってるとヤダし、逃げた。

もっとびびったのは、地面に落ちてる、使い終わったコンドームの数だ。よくこんな所でセックスできるよな。見つけただけでも、20個はあった。思わず写真を撮ってしまった。他にヤル場所無いのかな。スペインのカンポ・デ・クリプターナっていう、ドンキホーテが突進したということになってる巨大風車のある丘の上もそうだった。初めは、なんでこんな所に イカリングが?と思ったが、よく見たらそれだった。ヨーロッパ人は丘の上や山頂でしてしまう習性があるのだろうか。ロマンチックなドブロの風景を山頂から見ながら、そうなってしまうんだな。ラブホテルとか無いし。でも、ここで人が殺されてるんだけどな。

故郷
2006年06月25日

この土日に、用事があって実家に帰っていた。オレの実家は長野県諏訪郡。かなりの田舎だが、高校生まで、ここがそんなに田舎であるなんてことは、考えた事も無かった。特に都会に憧れる事は無かったし、ファッションとかにも全く無関心だった。山の中の川でイワナをつかまえて食ったりするのが、唯一の楽しみだったような気がする。芸術なんて言葉は、誰も口にしなかったし、まわりの人たちは、その必要性なんて考えもしないような人種ばかりだった。通ってた高校の美術室の石膏像の目には、ほとんど全てマジックで目玉が書き込まれていた。

田舎に帰る度に、オレがやってる事は、いったい何なんだと考えてしまう。いったい誰が、オレの作品を見て感動するというんだろう。そんな不安の中で制作を続けているのが、ちょうどいいんじゃないかと最近思えるようになった。

サラエボ2
2006年06月23日

haka.jpg
宿のおばさんと別れ、一人で街を散策してみたが、至る所に爆弾の跡、弾痕がくっきり残っていて恐ろしい。回復してきているとはいうものの、ここがかつて、オリンピックなんかをやってた場所とは、全く思えない。爆撃で何十人も死んだ市場とか、スナイパー通りに行く。このスナイパー通りってのは、セルビア兵が無差別に、通る車とか人をビルの上から撃ちまくった所。その当時が想像できる状態で残っていたが、道は至る所で復旧工事をしている。そんなに撃つ必要あんのかと思う程、蜂の巣になってるアパートもあった。

暗くなったので、山の方に有るオバさんのアパートに帰る。周りはムスリム人が多いのか、コーランが盆踊り状態で流されてた。アパートに入ったが、電気がついてないので、オバさんに聞いたら、電気は来てないと言い始めた。はじめ言ってたのとぜんぜん違う。後でわかったけど、お湯も出なかった。だまされた。

諦めて寝ようと思い、どこで寝たら良いのか聞いたら、「ここで私と一緒に寝る」と、ベッドを指差したので、オレは完全にキレて怒鳴った。ソファーとかあるのに、そんな事言いやがって、ババアは完全にオレとヤろうとしてる、恐ろしい。なぜか興奮すると英語がスラスラ出た。ババアは、オレ以上に英語が出来なくて、なんか反論してたが、意味がわからん。すぐにも、このアパートから逃げたかったが、周りは野伏りとかいそうな場所なので諦める。そういえば、会った時から、「日本人は臭くないから好きだ」とヤル気マンマンの意味不明の事を言ってたのと、会話に下ネタが異常に多かったのを思い出す。いくらオレがケモノでも、お前とはインポッシブルです。

翌朝、無事起きて、オリンピック広場とかに行った。グラウンド内が墓になってた。凄い数、ビビる。

サラエボに二泊ほどして、フランクフルト行きのバスに乗った。旧ユーゴ人以外なのはオレだけで、なんか難民キャンプのバスに乗った様な感じだった。フランクフルトからパリ行きのバスに乗ったんで、約30時間はバスに乗ってた事になる。それまで、国境の数は半端なもんではないので、パスポートコントロールの為、何回もバスから降ろされたりした。全然寝られない。日本人一人のせいで、また何回もバスの出発が遅れてしまった。

フランクフルトでバスを待っている時、日本語の流暢なバングラディシュ人と話をして、時間をつぶした。オレは芸術活動が、金が無くてキツイと言ったら、「ヤメタラソレデオワリダヨ〜」とはげましてくれて、なぜか説得力があった。パリに着いた時は、すごくホッとした。

写真は、サラエボ郊外の山。中央の白く見えるのは、全部この戦争で死んだ人の墓だ。

サラエボ
2006年06月22日

saraebo.jpg
先日、先輩の吉岡さんから、戦場ばっかり行ってるフリーライターの本をもらった。その中に、ボスニアヘルツェゴビナのサラエボに行った時の事が書いてあった。おれは、彼みたいに戦争直後に行ったわけではないけど、2年前に行ってみて、エラく衝撃を受けたんで報告してみたい。

おれは、吉岡さんを真似て(リンクにある彼のサイト参照)ルーマニアに行った後、以前から気になってた旧ユーゴスラビアをどうしても見たくなり、少し勇気を出して向かってみる事にした。電車でスロウ゛ェニアからクロアチアに入り、そこからサラエボ方面行きバスに乗る。旅行者と見られる人間は、オレとアメリカ人の弁護士(少し話した)だけで、あとは、クロアチア人かムスリム人かセルビア人のおじさんとかおばさん。見た目ではその民族の区別はつかない。彼等は、この間まで殺し合いをしていたのだ。同じ一つのバス、多民族混在、コワイ。

あらかじめ聞いていないバスの乗り換えとかあって、片言英語のオレはかなり焦った。クロアチアとボスニアの国境では、日本人はあまり来ないのか、いろんな事を聞かれ、オレのせいでバスが遅れた。まわりにいた、おばさん達が現地語で、この人は悪い人じゃないって(勝手な解釈)言ってくれていた。

ぐにゃぐにゃの山道を通って行くが、かなり鋪装されてるんで問題なかった。モスタルっつう街(超激戦地)を通った時は、不謹慎ながら、ものすごい感動を覚えた。だけど、クロアチア人、ムスリム人、セルビア人に囲まれているんで、むやみに写真を撮るのは控えた。弾痕くっきりの廃墟だらけ。

やっと、サラエボにつく。バス停で待ち構えてる、部屋貸しオバサン群を振り切ろうとしたが、ピンクの帽子をかぶったドイツ人のオバサン につかまった。安いので泊まる事にした。街は至る所に、爆弾と弾痕の跡が見受けられる。コーランが大音量で流されたりして、おどろく。

宿(彼女の自宅アパート、狭い)につくと、オバさん は、オレに自分の若い頃の写真を見せ始め、何ページか見ていると、いきなり「オゥッ ノー」といって、ある写真を手でかくした。彼女のヌード写真。テメー何人の旅行者に同じ事してんだ?アホか、とおもった(今夜悪い予感、客はオレだけ)。

その後、彼女の案内で市内観光。地雷や、スナイパー通り、軍事博物館らしきものを見てまわる。とにかく凄い、戦場の匂いがプンプンしている。彼女との会話の中で、オレがチトー(ユーゴの英雄)の名を出したとたん、「チットー、チットー、チットー」と叫びはじめた。アホかと思いながら、やっぱりチトーは凄かったんだなと思った。  つづく

写真は、ボスニア軍のヘリ (放置なのか展示なのかわからない)

久保田組不動産
2006年06月21日

いつも、ぜんぜん日記になってないような気がするんで、今日は真面目に。

アトリエを貸し出したいので、昨晩、そのためのチラシを作り、今日、母校の美大に行って、いろんな科をまわってみた。「すみません、久保田組不動産の営業の者ですが〜」と(芸術家ってほんとツライんだよ)。今まで、高校教師と土木と配管と、造形屋とデニーズのコックさんと、ログハウスの丸太磨きとログハウスのペンキ塗りと地下鉄の看板取り付けと、ホテルの絵の取り付けと、大工見習いと、鉄工と石工しかしたことなくて、営業というのは、やったことがない。これからのオレにとって、かなり重要な分野なんだけど、これは。入門してみようかな、どっかに。

来年卒業する学生が借りてくれるとイイと思い、知り合いが助手とかやっている所をまわる。時期が悪いと言われたが、そんなことは百も承知だ。9月に日本を出るオレには時間が無い、ワラにもすがる思いだよ。いろんなとこをまわった後、ちょっとチラシの様子を見に行ったが、絶対誰も見ねーだろそれじゃあ、という場所に置いてくれた有り難い科もあった。結局、サラリーマンだよね、あんたら。いいなー ボ、ボクもそんなとこで働いてみたいです。

大学生って若いな〜、といろいろ想像しながら帰る。

ベルリンでは、どうせ大したバイトとか出来ないし、向こうでデカイ事やるための資金は、今のところ久保田組不動産で作るしかない。誰か、オレの作品に資金提供してくれる人がいるといいけどね。やっぱり、営業かね。

貸しアトリエ情報
2006年06月20日

atorietirasi.jpg
場所   武蔵村山市中央(ムサビより自転車で20分、最寄り駅 多摩都市モノレール 上北台駅)

諸条件  建物2棟  本棟(70平米) 別棟ANNEX(30平米)  敷地面積100坪    
     鉄、木、FRP等加工の為の基本的な工具有り
       グラインダー、チェーンソー、丸のコ、ボール盤、高速カッター、溶接機、溶断機、
       ドリル、バンドソー、ハンマードリル、レシプロソー、石材用カッター、ルーター、                     
       かくはん機、三又、チェーンブロック、発電機、灯油窯機材、軽トラ等

     月一人2万 電気代   
     
     別棟ANNEX(30平米 写真下)一人貸しきりの場合  3、5万 電気代
                     共同使用の場合 一人 2万 電気代
     
     ホームセンター徒歩3分

     現在2名のアーティスト使用中
     
     平面の方も大歓迎(ANNEXは平面に向いていると思います)
どちらも、入り口はバカでかいので、搬入搬出が楽です。
    
大家の久保田が9月よりベルリンに移住しますので、借りて下さる方が渡独の際は
     無料で宿を提供しますよ。
   
興味の有る方久保田まで、御連絡下さい。080-5142-6459

     
     

海外に留学してる奴
2006年06月19日

オレは、去年の4月までパリにいたが、その間沢山の日本人留学生に会った。半分くらいは、大した目的も無く、日々親の金を浪費しながら、なんとなく生きてる様な人たち。結構いる。話してみると、大抵わかる。日本に帰っても、仕事とか無いから帰れない、といって現地で仕事してるわけでもない。うらやましいが、何故か金は沢山持っているようだ。うしろめたいのか、そういった話をすると、避ける。

日本で真面目にやってる人に言いたい。海外に住んだり、留学してたからって、別に偉くも何ともない。むしろ、疑いの眼差しを向けてやったほうがいい。語学ができたとしても、他には大した事学んで無い奴が多いから。

我が久保田組からも、先日一人の男がイギリス留学の為に出て行った。彼は、いつもいろいろな大言を吐くが、未だに結果は何一つ残していない。二年後どうなってるか楽しみだ。それにしても、テメエの出したゴミくらいは、テメエで始末してから去って欲しかった。昨日、イギリスから長文の謝罪と思われるメールが来たが、文字化けして読めねえ。たとえ読めたとしたって、何の慰めにもならない。さっき一人で片付けた。

海外の下らねえ文化の真似事する前に、普通の人間としてやる事、沢山あるんじゃねえのかな。
仁義って言葉、辞書で調べろ。

久保田組スタジオ物語 第九章
2006年06月18日

ここからの作業は、かなり専門的な知識が無いと、難かしくなる。単管パイプを組んで、大きな作業スタジオを建てるのだ。もちろん、オレは、タダの素人なので、よくわからない。大森さんの所で、仕事をしていて、オレも大学生の時からお世話になっている、元大工の千葉さんに来てもらい、教えてもらいながら、一緒に作業しました。千葉さんは、それから作業がある日は、毎日、ボランティアで来てくれます。それも半年以上です。千葉さんには、家族もいて、日曜日は家族サービスしなければならないのに、それを犠牲にしてまで、アトリエ建設に力を注いでくれました。普通の人では、そんな事は、なかなか出来ない。手伝いに来てくれた先輩の吉岡さんが、千葉さんに会って一緒に作業した後、「ああいう人が、まだ日本にいるのなら、日本もまだ大丈夫」と言っていたのは、今でも思い出す。恩人です。

まず、柱を立てます。穴を掘り、そこに単管を立て、垂直になっているか良く確かめてから、石を突っ込み固定。その後モルタルを流し込みます。それだけで、用意しておいた、単管は終わってしまった。アトリエが、かなりデカイため、使う単管の数は半端ではない。先が思いやられる。

廃車シリーズ  (クロアチア)
2006年06月17日

kuroatiahaisya.jpg
この赤い匂いのする廃車は、クロアチアがまだ旧ユーゴスラビアだった頃のモノだと思う。ドブログニクっていう、アドリア海に面したスゲー美しい都市(世界遺産)に行った時のもんだよ。クロアチアとか、セルビア・モンテネグロとかボスニアヘルツェゴビナとか、元々一つの国だったんだぞ、知ってるか?十数年前の戦争で、バラバラになっちゃった。隣の家の人を、民族とか、宗教が違うだけで、殺したり、レイプしたり大変な事になってた。だから、最近になって、いきなりひ弱な愛国心を唱えはじめた、いまどきの日本人とは愛国のリアリティーが違うぞ。

廃車シリーズ
2006年06月16日

haisya2.jpg
これも、メキシコシティで見つけたもの。郊外の少しコワイ地区で撮影。トヨタ、日産の古いの(70年代)もみんなまだ乗ってる。車検が無いのか、エンジンとか部品載せ変えまくってるらしい。メキシコには、廃車という言葉はないのかもしれない。個展で使ったビートル(ポートフォリオ参照)も、草むらの中に埋もれていて、ボロボロだったけど、車屋の人は、まだ使えると言って、タダではゆずってくれなかった。修理、改造、修理を長年繰り返した車は、塗装の下から前の塗装や、パテを打った後が剥き出しになっていて、油絵みたいになってる。渋い。  もっとあるから、今度見せる。

ベルリンでの制作 2
2006年06月15日

haisya1.jpg
いや、正確に言うと、これは廃車じゃない。普通にまだ乗ってる。メキシカンは、シブ過ぎです。

ベルリンでの制作

オレは、なぜか廃車(ボロボロになって捨てられているやつ)を見ると、興奮を覚える。何ともいえない、この感動はいったい何ゆえに込み上げてくるのか、いまだに良く分からない。田舎などを車で走っていると、畑とかの農機具置き場として、廃車が使われている事がよくあるが、思わず車を止めて、何枚も写真を撮ってしまう自分がいる。うぉ〜すげ〜と心の中でつぶやく、たまらないかっこよさだ。

これは、荒れ放題になって、わけもわからない状態の古戦場に出くわした時の感情に似てる。人はこれをフェチと呼ぶんだろうか。写真の廃車はメキシコシティで出あったモノ。メキシコは廃車の宝庫、いつか現地で、廃車を使った作品を作りたいと思う。ベルリンでも、当然廃車とか、それに準ずる素材を見つけて、凄い作品を作りたいと思っている。観光ついでに、作品作りの手伝いに来てくれるの待ってますよ〜。      

久保田組スタジオ物語 第八章
2006年06月14日

無事鉄板を敷き終わる事に成功。鉄板の上は、雑草も竹も生えてこない安全地帯だ。自然というのは、恐ろしいもので、少し油断していると、また元の、ジャングルにされてしまう。特に夏に近付く頃になると、どこからそんなパワーを吸い取っているのか知らないが、刈り取っても、刈り取っても、ぐんぐん雑草どもは伸びて来る。多分、ヤツラの脳みそは、オレの脳みそより、はるかに単純で、頑丈にできてるんだろう。学ぶべきものは多い。同世代の恵まれた境遇にある作家などを見て、あのころのオレは激しく嫉妬していた(今もしてるけど)。思うように、自分の制作活動ができないことで、精神がねじれ、ひねくれていた。本を読むのでも、このころは、戦国の梟雄、松永久秀、斉藤道三、北条早雲、浮田直家とか、まさに雑草みたいな人の話を読んで、気持ちを高めていた。当時を思い出すと、今の自分はかなり、ハングリーさが欠如してる事に気付く。

まだ、屋根が無いので、雨がしのげない、道具を保管する場所も無い。便所も無いので、野糞、立ション当たり前の状況。プレハブの小屋と、仮設トイレの購入を決意。レンタルのニッケンで、それらが中古で格安で売っていたので購入した。格安と言っても、毎回全財産を注ぎ込んでいたのは変わらない。でも、始めた頃に比べたら、相当格好が付いてきた。

このころから、隣の農家の方が、畑の中の農道を提供してくれて、車を中に乗り入れる事ができるようになった。といっても、雨が降ると、タイヤがすべって出られなくなる。何度かハマってしまったことがあるが、農家のおじさんが、トラクターで引っ張ってくれた。「おめえ、若けーのに、なかなかやるじゃねーかヨー」と、竹藪開墾を村山弁(?)で褒めてくれたのが嬉しかった。いまだに、何を言ってるのかわからない時がある。東京もなかなか深い。

通電決定!!!
2006年06月12日

mizu.jpg
さっき、東電から久保田組に、念願の電気が来るという知らせが届きました。バンザーイ!バンザーイ!竹藪開墾開始以来、7年目の快挙だ。まさに「風の中のすばる〜」ですよ、これは!夢はかなうぞ!スクールウォーズってかんじです。オレはうれしい。涙です、涙。

よーし、次は水だ! 実は、言ってなかったけど、久保田組には水がない。二年前、雨水をポリタンクに引き込むシステムにしたが、せいぜい溜まっても、200リットルが限度だった。今日、500リットル入る巨大タンクを購入した。それに雨水を引き込んで、そこから配管し、アトリエ中で水を使えるようにしたいと思う。頑張れば、風呂やシャワーだって夢じゃねえ!オレはやる。

今日は、タンクを高い所に取り付ける為の台を作った。写真でわかる通り、下は廃車を利用した倉庫のドア部分なので、空きスペースにした。ここで、シャワーを浴びるのもいいね。資金不足で材料がそろわず、まだ貧弱だが、補強する予定。500キロの重さを支える頑丈なものにしなければならない。あいかわらず、一人の作業なので、手間どった。右上に見える雨樋を引き込むんだよ。

それにしてもうれしい。今夜は、これから飲んだくれる。もう発電機のヒモ引っ張らなくていいんだよ。

時代劇
2006年06月11日

今日は、日曜日なんでNHKで8時からやってる、山内一豊と千代のドラマを見た。NHKのやつはいつもイマイチ面白くないが、戦国時代が好きなんで、たまに見ている。蜂須賀小六の役を、プロレスラーの高山善廣 がやっているのが笑える。顔のアップとかほとんど無くて、セリフも「おーっ」とかしか無いけど、毎回出てくるんで、注目している。

その後、勝新の座頭市のビデオを観てしまった(やめられません)。前、ドイツでドイツ人とアメリカ人の夫婦が、たけしの座頭市を絶賛していたので、オレは勝新のがいいよと言って、ビデオ屋で借りてきて見せてやったんだけど、二人とも眠そうで、奥さんの方は「スーパーマンの話?」と言って、寝てしまった。どうも、外人には勝新の良さが伝わらないらしい。    勝新(勝新太郎のことだよ)
 

近所の山城
2006年06月10日

ozawajyou.jpg
前々から、近所に山城があるのは知っていて、気になっていたんで行ってみる事にした。家から自転車で15分だからとても近い。オレの家は川崎市の多摩区にあって、多摩川の河川敷まですぐの所だ。多摩川という天然の要害があるおかげで、この辺では川を挟んでの戦が、昔からとても多い。

城の名は、小沢城。よみうりランドの手前の丘で、この季節は、草木に覆われ大変な事になっていたが、遊歩道は整備されていた。尾根伝いに立派な遊歩道があり、登っていく。プゥプ〜、プゥプ〜 (法螺貝)。いつも、古戦場に行く時は、足軽になった気持ちになりきる事を大切にしているので、だんだん興奮してくる。両脇の断崖絶壁は、すごい角度だ。攻め手から、守り手の兵士の気持ちにスイッチし、「敵の足軽どもが、大挙して崖をよじ上って来よった!石を落としてやれー、 ぎゃはは、バカな奴らよ」などと、まわりにいる散歩者に気付かれぬよう、興奮は最高潮に達する。結構大変な城だぞ、ココは。   

ふ〜っと一息つき、いろんな看板や地形を見て、勉強した。鎌倉、南北朝、戦国と合戦の要衝となっていたようだ。詳しい内容は、どうせみんな興味無いだろうから省く。だけど、第二次世界大戦の時も、B-29を見張る場所だったらしいから、驚きです。

最近、ハラが出てきたから、良い運動になったよ。結構楽しいんだぜ。

久保田組スタジオ物語 第七章
2006年06月09日

工事現場で使っていた、古くなった鉄板を買った。20枚程。たしか4x8(120cm X 240cm のこと)を15枚、5x10(150cm x300cm)を2、3枚だったと思う。鉄の厚さは15ミリくらい。ともに、半端ではない重さだ。もちろん手で運ぶのは不可能なので、この土地の持ち主である大森さんに頼んで、でかいユンボ(パワーシャベル)を持ってきてもらった。5x10の方の鉄板は、とてつも無くでかく、業者の人は ゴットウ(5x10だから)と呼んでた。まさに ゴットウ という響きがふさわしい存在感があるシロモノ。一枚で500kg以上あるだろう。

鉄板を徐々に並べていく事にした。アトリエの地面になる部分なので、水平に並べていかないといけないんだけど、そのころのオレはバカだったので、地面をあらかじめ平にならしておくのを怠っていた。だから、鉄板は凸ボコに波打ったかんじになってしまった。少しでも水平になるように、スコップで慣らします。でも、あまり変化はなかった。アホだな〜、という感じで見ながら、ユンボを運転してる大
森さんの前で、オレと、手伝いのHさんは、ああでもないこうでもないと、やっていた。

ゴットウを敷く番がきた。あまりデカイんでコワイ。3メートルもあるんだよ。ワイヤーでぶらさげて、移動したが、ユンボが不自然に揺れてた。次の瞬間、ユンボが傾いて、大森さんは、運転席から飛び下りた。ユンボがぶっ倒れ、ゴットウは、ばったーん、と地面に落ちた。オレはションベンをチビりそうになりながら逃げて無事。ゴットウのあまりの重さに、大型ユンボも対応できなかったようだ。誰もケガしないで良かった。スローモーションのような光景。

なんとか、ユンボを起こして、作業を終わらせた。帰りに、スコップが一丁無いので、探していたら、ゴットウに潰されて、スルメのように真っ平らになった、変わり果てた無惨な姿で発見される。思い出す度にコワイ。

久保田組スタジオ物語 第六章
2006年06月08日

始めに断わっておきますが、この物語は、今現在の事ではなく、アトリエを作ってた頃の話を思い出して書いてます。(何人か、今現在の話と勘違いされ、激励してくれる方がいるので)

開墾を始めてから、一年後、オレはやっとの思いで竹を伐り終えた。とうとうこの日がやってきたという感動がこみあげてきた。しかし、喜びもつかの間、竹の根っこは確実に生きていて、五月を過ぎると、一斉に無数のバンブーチルドレンを伸ばしてきた。はじめは人にあげたりしていたが、あまりの多さに、蹴り倒すことにした。ほとんど駆除に近い。竹の根を展示した時(第四章参照)、見にきた人で、自然破壊と言ってたおばさんがいたが、まともに竹と戦ってみれば、そんな事は言えない。自然をぶち壊して作った、快適な都会のマンションとかに住んでやがるババアにそんな事は言わせねえ。てめえ、一本でも木でも竹でも、雑草でも、てめえの手で伐った事あんのか?  おっと、興奮してきちまった。

このままではアトリエを建てたとしても、床から糞タケノコが生えてくるのは目に見えてる。いろいろ考えたあげく、工事現場とかに敷いてある、分厚い鉄板を敷き詰める事を決意する。いくらヤツラでも、何百キロもある鉄を持ち上げる事は出来んだろう。しかし、敷地は広い、鉄は高い。そんな金は無い。  つづく

入れ墨
2006年06月06日

tatoo-web.jpg
入れ墨って痛いの?と、しょっちゅう聞かれるので答えますが、マゾの人以外、かなり痛い。少なくとも、オレの場合は、地獄の苦しみを半年近く味わう事になってしまいました。作品のイメージを考えた時、どんなことになるのかは、想像してはいたけれども、あまりの苦痛に、何度も始めた事に後悔しました。途中で止めるわけにもいかず、やりとおすことになった。

パリの、ポンピドゥーセンターの近くのTATOOショップに二週間に一度程のペースで通います(一年半前のパリ滞在中に作ったので)。写真の人 オリビアが店主の店です。彼も、なんで、こんなコトするんだと、何度も聞いてきて、オレも英語で説明しますが、始めはよく分からない様子でした。でも、アートに対する理解は、一般人でも相当ある国なので楽でした。彼は、日本の入れ墨の技術や、デザインを賞賛していた。

一日に約二時間半程掛かりますが、とてつもなく長く感じました。はじめは、力みが入り過ぎて、作業が終わった後、筋肉痛になってました。家に帰るのに20分程歩くのがきつかった。帰った後は、頭がボーッとして、背中が痛いので、うつぶせになって寝ました。妻にはかなり心配をかけてしまった。

写真では、オレの前がガラス張りになってますが、これが嫌でした。通る人が、辛そうなオレを見ながら、手を振ってくるので、引きつった笑顔で手を振り返します。Black Squareが終盤にさしかかった頃、オリビアが、お前のために特別な物を用意したと、なんと25本も針の着いたノズルを見せてくれた。オレは半泣き状態だったけど、オー グ、グレイト!と口走っていた。何日も掛かってやったので、全体がムラになっていて、それを平均な黒さにするのだと言っていたが、もうやるしかない。

最後の日はいつもより時間がかかった。全然終わらない、何しろ面積が広い。あまりの痛さで、頭の中は半分壊れかかっていて、ポピピ、とかチョぺぺピ、と意味不明な宇宙語が頭を駆け巡っています。3時間半位でやっと終わり、オリビアはオレを褒めてくれた。少し嬉しかったが、その後、お前本当は日本人じゃないだろと、聞かれた。何でだと聞き返したら、日本人がそんなに根性あるわけない、というような事を言ってた。確かに、パリに来てる日本人は、ふにゃふにゃしたホモっぽい男が多い。

帰り道、やり遂げた充実感でいっぱいでした。ロッキーが試合に勝った後の音楽が勝手に頭の中に流れていた。

電気
2006年06月05日

実は、久保田組スタジオには、電気が無い。ひー、とうとう言ってしもうた!
この何年もの間、発電機に寄る自家発電で、電力をまかなってきた。内緒にしようと思ったが、すぐバレル事だし、もう隠せない。

だが、長年の交渉の結果、とうとう明後日、東京電力がココにやってくる。電気がひけるかどうか、現地調査に来るらしいんだ!!積年の念願を果たせる日はやってくるのか?乞う御期待!

ANNEX(久保田組第二スタジオ)
2006年06月04日

ANNEX.gif
完成したので、外観と内部の写真を公開します。広さは、奥行き8メートル、幅4メートル、約32平米(20畳程)の板の間。間口の広さ、幅3メートル、高さ2メートル。久保田自身が作った苦心の作です。ドイツに行ってる間、是非誰かに使っていただきたいのです。家賃は、月3万5千円程で。条件によって異なる事もあるので、直接話し合いましょう(マジで安い、オレなら借りる)。

借りていただける方は、ベルリンの私の家に泊まり放題という特典付きだよ。複数で借りるのもOK。
ここの番地は、武蔵村山市 中央。立川から出てる、多摩都市モノレール上北台駅から自転車で10分。武蔵野美術大学から、バイクで15分だよ。自転車で1分のところにコメリというホームセンターがあって、便利。かなりの音をたてても、苦情は来ません。

道具は、溶接機、ボール盤、グラインダー、アセチレン及び酸素、チェーンソー、丸のコetc,基本的な金属、木彫、FRP作業には申し分ない工具がそろっていて、使い放題。平面の人も勿論歓迎。ムサビ卒の作家が2人、本館の方を既に使用中。どうですか?

興味のある方は、メールで連絡下さい。御案内しますよ。

アイルランドの海
2006年06月03日

irland.jpg
ちょうど一年前に、アイルランドの南の都市コークに行き、3週間ほど滞在し制作発表させてもらいました。雨期だったせいか、ずっと雨が降っていた記憶があります。広大な土地に、緑はそう多くありません。土の上に石ころがたくさん転がっていて、石を使った文化が芽生えたのは、納得出来ます。アーティストインレジデンスが終わる頃、アイルランドの田舎の街に連れていってもらいました。海は、彼等が言うには、ストロングって言ってましたが、まさに荒々しい力強いものを感じさせられました。

自然もすごいですが、そこで生きて来た人々の重厚感を感じる所です。パブで毎晩黒ビール三昧は答えられないっすよ。

ANNEXほぼ完成
2006年06月02日

今日やっと、塗装作業を残し、ANNEXが完成しました。昨日、ムサ村のサッシ屋で中古のサッシを2000円で譲ってくれました。大工なりきり作戦(ANNEX工事状況3参照)で、粘り、奥から良い物を出してもらいました。今度のおじさんは優しかったよ。 おかげで、なんと、三つも窓がある素晴らしいアトリエになりました。入り口は、分厚い防炎シートをカーテン状にして、大きな物も搬出入できるようにしました。鍵も掛かります。9月には日本を離れるので、自分で使えないのが悔しい。

久保田組スタジオ物語 第五章
2006年06月01日

 伐った竹が膨大な量になったので、積み重ねておいたが、それでも邪魔なので、ユンボ(パワーシャベルのこと)で穴を掘り燃やす事にした。竹の根が絡み合った地面は、機械を使ってもなかなか掘れないので、手掘りと併用、のこぎりも使い、進めていきました。かなりでかい穴になったので、竹をそこにぶち込み、こわれたチェーンソーの中に入っていたガソリンを、ぶっかけてやりました。そこに火のついた紙を投げ入れましたが、全く引火しないので、恐る恐る近付いていったら、いきなりボーンと地響きと共に燃えだしたんで、かなりびっくりしました。ガソリンは気化しないと燃えないみたい。

その後、竹がパーンパーン パーンと、すごい音をたてて、連続で弾け続けたので、近所の人が遠くからずっと見ていました。また、オウムが何かしでかしてると。  今から考えると、何と言う思いきった事をしていたんだろうと、恐ろしくなります。すごい煙が民家の方に流れていってました。オレは馬鹿かもしれない。

それでも、いっこうに竹は減りませんでした。その話をどこからか聞き付け、いろんな人が竹をもらいに来始めました。ある日、会った事も無い大学の後輩が、竹を学校まで運んでくれと頼んできたので、運んでやりました。だれかに、あの人は酒さえ飲ませれば大丈夫と聞いたのか、その女の子は、(お父さんの日曜日)みたいな紙パックに入った日本酒を二升もボクにくれました。大学内での、オレのイメージってこんなかよ、と少し淋しくなりました。